要介護高齢者の生きる目標,価値観を考える(その1)
――ケアプランの長期目標を立てる難しさ――
高齢期は喪失の時期であるといわれている。まず健康な身体を失う。日々節々の痛みに耐え、転倒の不安や、もし認知症になったらという不安は絶えることがない。中には100歳になって、医者にかかっていないという強者もいるが、多くは薬を手放せない病気を抱えている。ましてや要介護状態になると己一人で暮らすことも困難となる。
次に失うのは経済的基盤である。頼りは年金であるが、医療保険料や介護保険料の値上がり、さらにこの間の物価上昇は年金を細らせるばかり。老齢基礎年金しかない人の暮らしは、貧困そのものである。暮らしの維持のためには老後も働き続けねばならないのが、今の高齢者の懐具合である。次に失うのが知人、友人そして家族といった、今までつながり、支えあってきた人たちである。80歳を過ぎれば同級生の大半は先に逝ってしまっている。不自由になった足腰で外出もままならず、かろうじてつながるのは電話くらい。中にはラインを駆使して家族と毎日コミュニケーションをとっている高齢者もいるが、そんな人はまれである。そして最後は、生きる目標、意味を失うこととなる。若いときから趣味を持っている人は、一人でも趣味を楽しむことができるし、それを通じて他者とつながることもできる。趣味も交流を持たない人は、持て余す圧倒的な時間になすすべを持たない。「早くお迎えに来てほしい」「生きていてもしょうがない」「長生きしすぎた」という高齢者の嘆きに対し、私たちはそうした高齢者を慰める、有効な言葉を持ち得ていない。
そんな高齢者、特に要介護状態となった高齢者に対して、介護保険は「自立」を求めている。そこで言われる「自立」「自立支援」とは一体なにを意味するのであろうか。様々な喪失を体験しながら、老い、衰え、やがて避けることができない死を迎える要介護高齢者に、介護保険は何を求め、何ができるのであろうか。そうした、要介護高齢者を支援する計画(ケアプラン)を作成することを仕事としているケアマネジャーは何に直面し、何を困難と考えているか、考えてみたい。
要介護状態となる原因は、脳梗塞、転倒による骨折、認知症とさまざまである。その結果、自由に歩くことが困難となり、入浴や更衣にも他人の手助けが必要となる。会話も怪しくなり、ベッド上の生活とならないまでも閉じこもりがちとなる。こうした移動、更衣、入浴、排せつ、食事といった通常の生活を送るために不可欠な動作を日常生活動作(ADL)という。こうしたADLや家事の遂行に困難を抱えることになった要介護高齢者の問題(ニーズ)を解決するために、ケアマネジャーはプランを作成する。歩行が困難な人にはリハビリサービスの提供や、転倒予防のための環境整備をプランに位置付ける。起居動作に困難を抱えるようになった高齢者に対し、掃除や買い物、食事の用意等の生活支援サービスは、在宅での生活を支えるためになくてはならないサービスである。通院のための手段の確保も、多くの病気を抱えた高齢者にとっては不可欠である。ケアマネジャーが作るそんなケアプランは「できなかったことをできるようにする」「できないことを本人に代わって介護サービスで生活できるようにする」ということである。果たしてこれで要介護高齢期の自立は実現することができるのであろうかという疑問が残る。現にこうしたケアプランを作成しているケアマネジャーは少なくないし、果たしてこれ以上の何ができるのか、という声も聞こえてきそうである。
この問題をケアプラン作成という視点からみると、次のように考えることができる。その高齢者が生活していくうえでの課題(ニース)に対し、サービスを提供することによって「できなかったことをできるようにする」「できないことを本人に代わって介護サービスで生活できるようにする」。ここでは当面の困難な生活上の問題(ニーズ)を解決するということで、ここで掲げられる目標は、あくまで当面の目標(短期目標)である。これに対して、日々衰えていかざるを得ない身体と、生活上の困難を抱えながら、どこで、どのようにして、その人らしい暮らしを実現し、自分らしく生きていくのかが問われていることを忘れてはいけない。そこにケアプランの長期目標の課題があると考えられるからである。しかし、そこで実際ケアプランに描かれているのは「在宅生活が継続できる」「現在の健康状態が維持できる」「安心して生活ができる」といった、誰にも言える一般的な表現でしかない。ここで、その高齢者にしかない暮らし方、老い方、願いを描き切れていないのが、現在のケアプラン作成上の課題ではないか。